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エピダウロス (ダルマチア) : ミニ英和和英辞書 | エピダウロス (ダルマチア)
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エピダウロス (ダルマチア) : ウィキペディア日本語版 | エピダウロス (ダルマチア)
エピダウロス()は、ダルマチア(現代のクロアチア、アドリア海沿岸)にあった古代ギリシアの植民地で、紀元前6世紀頃に建設されたとされる〔Aulus Hirtius, ''De Bello Alexandrino'' XIV〕〔Austria: Her People & Their Homelands by James Baker,""... dates back to the sixth century B.c., when the Greeks founded here Epidaurus"〕。町はローマ帝国支配時の紀元前228年にエピダウリュウム(Epidaurum)に名称が変わった〔Wilkes, J. J. The Illyrians, 1992, ISBN 0631198075, page 216.〕。ユリウス・カエサルとポンペイウスのローマ内戦時、小オクタウィア(M. Octavius)の軍によって包囲されたが、到着した執政官プブリウス・ヴァティニウス(Publius Vatinius)により守られた。 7世紀、アヴァールやスラヴ人によって都市は破壊された〔Researches on the Danube and the Adriatic by Andrew Archibald Paton (1861). Contributions to the Modern History of Hungary and Transylvania, Dalmatia and Croatia, Servia and Bulgaria- page 247〕。エピダウロスからの難民は現代のドゥブロヴニクに含まれるラウス(ラグーサ)に逃れている〔Dalmatia and Montenegro by Sir John Gardner Wilkinson〕。中世、ツァヴタット(Cavtat)またはラグーサ・ヴェッキーア(Ragusa-Vecchia)と呼ばれる町が同じ地域に建設された。アウグストゥス治世時の執政官P・コーネリウス・ドラベッラ(P. Cornelius Dolabella)の墓とイリュリクム (Illyricum)の行政官のローマの碑文が遺跡の中から発見され、水路の跡なども残されている〔Notizie Istorico-Critiche Sulla Antichita, Storia, e Letteratura de' Ragusei (published in two vols) by Francesco Maria Appendini.〕 。イリュリア人たちはザプタル(Zaptal)と呼んでいた。エピダウロスはギリシャの世界遺産エピダウロスやラコニア県のエピダヴロス・リミラ州などにその名が見られる。 == 脚注 ==
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